Story 5
African Kingdoms
アフリカの王国
ヨーロッパの侵略が始まる前は、アフリカには高度に営まれた国々がありました。アフリカの王国には物質的には富を重んじたわけではありませんでした。これを説明するとヨーロッパがアフリカを侵略する前には、どうしてアフリカの国々が経済的に発展しなかったかがおわかりになると思います。
アフリカでは利益の追求よりも、権力を手にすること、威信を保つことのほうがもっと大切で、それを手に入れることが人生のゴールだったのです。そのため必要なもの以上は生産しようとはしませんでした。
繁栄を誇った国々の中に、ベナン、コンゴ、ソンガイ、ルバ、マリなどがあげられます。それぞれの王国には国の起こりを伝える伝説があります。そのうちの西アフリカのバウレ王国がどのようにしてできたかをお話しましょう。
アシャンティ王国の女王の座をいくつかのグループが狙っていました。ポク女王は敗れてしまい、何千人もの家来といっしょに逃げました。アシャンティ王国の軍隊は女王を捕らえ、罰しようと後を追いました。王女たちの一行がコモエ川に着いた時、カヌーがなかったので困り果てて神様にお願いすると、王女のただ一人の息子と宝石をいけにえとして川に投げこむようにとのお告げがあり、泣き泣き王女がそのとおりにすると、神様は彼女の願いを受け入れて、川に木を折り曲げるように橋をかけてくれました。王女と家来が無事渡り終えて、アシャンティ王国の軍隊が川にたどり着く前には、木はもとに戻ってしまい、軍隊は川を渡ることができませんでした。
その後、そこに住みついた人たちと、その場所は何千人もの人々の命を救ってくれた王女のひとり息子にちなんで"バウレ"(子どもは死んでしまった)として知られるようになりました。王女はあらたに王国を治め、人々から尊敬され、今でも彼女への讃辞をこめたお祭りがあります。王女には他に子どもがいなかったので、姪のアクワ・ボニガが後を継ぎました。コートジボアールの現大統領は"バウレ"の長(おさ)でウフェット・ボワニィといいます。
秩序だった組織などなく、原始的な集落がただ寄り集まっただけというアフリカの社会のイメージが根強くあるのにもかかわらず、たくさんの王国がアフリカのサバンナに起こりました。その頃、アフリカを訪れた旅行者たちはガーナ、ベナン、マリなどのすべての国々が村々にしっかりとした組織をはりめぐらし、裁判所もあり、役人、大臣、音楽家たちもたくさんいて、豊かだったので目をみはりました。王国の多くは同時代のヨーロッパの国々に比べてより洗練された行政機構とルールをもっていました。アフリカの王国と文明は遅れているという考え方を広めたヨーロッパのやり方は、ある意味では間違っています。知性的にも、精神的にも、これら王国のうちのいくつかはヨーロッパに比べて格段に進んでいました。ヨーロッパにひけをとっていたのは、戦争の技術と物資面だけでした。軍事と物資面だけが優れていたので、ヨーロッパ人はアフリカの王国を植民地にしたのです。
《植民地》
ヨーロッパ人による大陸への侵略と占領のことをアフリカ人は歴史上もっとも屈辱的で、いみ嫌う時期として"植民地時代"と名づけて呼んでいます。ヨーロッパの重商主義と工業化が海外へ広がっていったことにより破壊がもたらされて、アフリカの既存の秩序を根本から変えていきました。
その時代、ヨーロッパの文明、文化に属していなかった人たちにとって、ひどく不公平と破壊の時代でした。多くのアフリカ人たちがアメリカの東海岸や南アフリカやカリブ諸国へと連れられていきました。何百万というアフリカ人が村々から連れ出され、奴隷として売られました。一千人もの人がアメリカの大規模農場で働くよう強制的に連れ去られました。それ以上の人たちが運ばれる途中の船や陸地で死んでいきました。
ヨーロッパが軍事的に優勢にたっていたために、気球における主な植物生態系にも大きな変化を与えました。南アメリカ産の「メイズとうもろこし」と「キャッサバ芋」は世界に広まっていきました。メキシコ産のココアは何百人もの西アフリカの人々をささえる糧となっています。アマゾンのゴムの木は東南アジアに根をおろしました。
中国産のお茶は東アフリカからの輸出品目となっています。世界経済におけるヨーロッパの支配は文化と環境の両方をみても、ほんとうに破壊的なものでした。アフリカ人はヨーロッパ人の利益のために自分たちが口にしたり、利用もできないもの(ココア、コーヒー、綿、茶、ゴムなど)を栽培するように強制されました。これがアフリカが飢餓と砂漠化をつくりだす原因となっていきました。土地の肥沃なところは輸出用作物栽培に使われ、やせた土地で限られた時間内と作業で最低必要な栄養をまかなえるような作物を栽培していかなければなりません。やせて地力の落ちた場所に雨がたくさん降ると、表面にある肥えた土壌を洗い流してしまい、耕作量がひどく落ちます。
アフリカには本来、土地の個人所有という概念はなく、みんなで仲良く所有していました。ところが植民地化にともなって土地の個人所有の概念がヨーロッパ人によって広がっていきました。
植民地化によってアフリカ人の生活が改善されたという人がいます。アフリカの国益もしくは、状況にそぐわない行政、技術、法の支配、科学、教育が理由としてあげられたりします。これら"利益"と呼ばれるものが、まさに今日のアフリカでの政治的、社会的問題を起こしているのです。自給自足で成り立っていたアフリカの社会を根底から壊し、アフリカ大陸をヨーロッパのための原料と労働力供給地へと変えたのです。個人主義にもとづいた個人所有と資本主義が導入されることにより、誠実さと結束力にもとづいたアフリカの価値システムが破壊されていきました。西洋の価値観ではグループ全体の成長より個人の成長を重くみたのです。
アフリカには資源が豊かなのに、どうしてそこに住んでいる人は貧しく、惨めな生活をしているんですか、という質問をよく受けます。この悲しい状況を説明するには、いろいろな点があげられます。アフリカが政治的にも経済的にも不安定な理由は植民地にあります。一九六〇年後半、アフリカの国々は独立していきました。しかしリーダーの地位に座った人たちはヨーロッパで大学などの最高教育を受け、そこで自分たちが慣れ親しんできた西洋の生活様式をそのまま、母国で営もうとしました。ほんとうに国を想う人たちや民主主義のリーダーたちは暗殺されたり、排除されてきました。このようにして、植民地時代を経て独立にいたる道のりは決して平坦ではなかったのです。
でも皆さん、考えても見てください。日本でもそれほど遠くない昔、生活することが大変な時代があったことを。資源のない日本がここまで豊かになったのは、皆さんの祖父母や曽祖父母たちが教育を大切にしてきたからです。教育を受けた人材こそが日本の誇れる資源なのです。
By チロンボ・ンゴイ Jr.
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